昭和四十五年二月二十二日 朝の御理解
X御理解第十八節「此の方の事を神神と言うが、此の方ばかりではない。此処に参って居る人々が皆神の氏子じゃ。生神とは此処に神が生まれるという事で、此方がおかげの受け初めである。皆もその通りにおかげが受けられるぞ。」
最近お道では体質改善という事がいわれております。信心の体質改善、教会の体質改善、成る程、体質改善と、どうもこの頃病気ばっかりしていけんと、もう根本的にひとつ体質から替えていかにゃならん、そういう養生をしなければならんと、どうも問題が多すぎる。そこでいわゆる金光教の本質論になる訳です。金光教の本質とそこに立脚しての信心、本質に基づいての信心、という事を考え直さなきゃならんという事です。
今日私、この体質の質という字を頂いてどういう事かと思いましたらやはり、体質の質であり本質の質であり又は、例えば果物なら果物、苗木なら苗木でも質がええとか質が悪いとか申しましょうが、まあ言うなら合楽の信心の質の良否という事になりますねえ。
だから質という字から私はいろいろな事を考えた。合楽の信心の質は一体いいのか悪いのか、そして今教団で言われておるように、体質改善をするならどこの所を体質改善してゆかねばならんのか。それにはどうしても、金光教の信心の本質に基づかなければならないと。
そこでお互い自分の信心の質はいいのか悪いのか、いっちょ思うてみなければいけません。現在本質の改善をする必要があるや否やを考えてみなければなりません。そして合楽で唱えておる事、又いわゆるお道の信心の本質という事に、合楽の生き方というものをです、思うてみなければいけない訳ですねえ。
私は御理解十八節位金光教の本質を言い表しておられるものはないと思います。人間は皆神の氏子と仰せられます。皆がいわゆる質は神様の質だという事。
ところが人間のいうなら我情我欲が、人間というものは生まれた時から様々な形で、我、情やら我欲やらを表すと言うておられます。赤ん坊でも欲をむき出しに表します。
例えば、お乳を飲むでも片一方の乳を飲むのに、片一方の乳だけ持っときゃいいのに片一方の乳を押さえて飲むでしょう。人にはもうやらないという訳です。もう俺のもんだと。ひとつ飲んでから、片一方の方はいらんようなものだろうけれども、片一方の方も誰にもさわらせん、当たらせん。俺のものだという事がそのような風に表れてくるのじゃないでしょうか。
というようにです、そういう欲がいよいよ成長してくる。肉体が成長してくると同時に、そういう欲望というものも、我情というものも段々育ってくる、一緒に育つ。
そこで信心というのは、いわゆる信心に基づくという事になる。信心に基づくという事になった時初めて、我情我欲というものに気がつく、又本質は神だという事も分かってくる。
そうでしょうが。信心に基づかなければなりません。人間は人間なんですから。人間は神の氏子としての、いわゆる万物の霊長としての値打ちというものを実は持つている。持っているけれども、それが一緒に育っておる我情我欲に、覆いかぶせられるというか、包まれてしまっていわばその本質が変わってしまう。
汚れに汚れ、乱れに乱れる、どれが本当な事やら、よい事やら悪い事やら見境すらつかんようになる。それはその質が変わってくるからなんです。
例えば、こういう衣類、タオルならタオルでもいいです。汚れに汚れ、もうそれこそ煮しめた様に汚れておる、引っ張ってみるとビリビリ破れる、あんまり汚れておるもんだから「こらもう、性の変わっとるタイ」というでしょうが。それが性が変わるという事が質がかわるという事なんです。これはもうこの着物は性が変わってしもうとる、という事はもう質が変わってしまっておるという事。人間の姿、形はしてるけれども、もう人間の性じゃない、それこそ犬、畜生にも劣り果てた奴という事を申します。蛇の様な人と言うでしょう。
もう人間としての値打ちをなくしてしまっておる。いわゆるその思想が変わってしまった。放っておくとその様な事になるのです。段々年をとっていくに従って頑固親父になっていったり、年をとるに従っていわゆる、こんにゃく婆アといわれるごとなる。段々年をとるに従ってはっきりそこに性が変わってしまう。
これじゃあどうして、本当の極楽行きは及びもつかんです。だから信心とはね、そこんところから気づかせて頂く事だと思うのですよ。人間の本質、それは神の氏子本当は神様そのままなんだ。同じものを持っているんだと。
それが、私共の放任された我情我欲によって垢がつき汚れに汚れて、段々質が変わってくる。人間の面かぶっておるだけ、心は鬼か蛇かと犬か畜生にも劣り果てたという様に性が変わっていく。そこに人間の不幸が有る訳です。
そういう風にこの質という事を言うてみると、只今申しましたような事になるのです。ですから私共は信心させて頂いて、果たしてその質の改善という事に焦点を置いておるかどうかという事なんです。
信心とはね、いわゆる此の方は病気治しや災難よけの神様じゃない。それでもやはり信心に基づかないから、願う氏子におかげを授けといって、願う氏子におかげを授けて下さるから、そんなら、おかげを下さるのが神様だという事に思うちゃならん。
願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせと、只今私が申しておりますような本当な事を、おかげもやりながら、おかげも渡しながら御利益を見せながら、本当な事へ基づいての信心になってくれよと言うのが神の願いなのである。
そこで此の方の事を神神というが、此の方ばかりではない。皆も此のようなおかげが受けられる。本質は同じだと、此の方がおかげの受け初め、いわゆるおかげの手本というものを教祖様が表して下さった、見せて下さった。
それに何ぞや、どうぞ病気を治して下さい、どうぞ今日も商売が繁盛致します様にという事ばっかりに終始しとったらどういう事になるでしょう。
それは願わなければなりません。痛ければ痛い、痒ければ痒い、苦しければ苦しい事をお取り次ぎを頂いて願うけれども、そういう苦しい事の今度は本質なのです。難儀のいわゆる本質なのです。それを極めてゆかねばなりません。それがいわば起因するところは、和賀心にありという事になる時です。その和賀心を本気で見極めよう、見つめようとするところに私は信心が有るとこう思うのです。
Z『私今日御神前に出らして頂きましたら、今テレビでよく宣伝しております、モノゲンオールという洗剤が有りますがそれを頂くのです。』そして、そのモノゲンを物の元と漢字で次に頂くのです。いうなら物の元という事はここでは、事柄の元と頂かなければならないでしょう。全ての物、全ての事という意味に頂かなならんでしょう。
その源、いわゆる元、いわゆる難儀の元、幸せの元、オールという事は私は全てという風に頂いたんです。
だから、いうならば難儀の元、その全てがです、全ての難儀の元がです、全ての幸福の元というのは何処に有るかというと、幸福の元が心に有るように、難儀の元は心に有るという事。
モノゲンオールというあれは、世界にその販路を広めていっておるという意味の宣伝ですねえ。私は最近申しております、和賀心時代が必ず来る。お互いが本気で和賀心を目指さなければならない。平和の和であり、賀正の賀である。いわゆる信心によらなければ頂けない慶びである。
その和の心、信心の喜びの心、その心がなからなければ、人類の幸福という事は有り得ない。これがもう根本なんだ。それを徹底して地球上の総人類の上にです。その事をです、教え、進め広めてゆかなければならないという事を気づく時代が来る。様々な機械文明というか、いうなら世はコンピューター時代といわれる様にです。そういう人間の限界と思われる程しのです、いうならば形の上に於いての事がなされる様になった。人間が月の世界に行けれるようになった。
そういう事ができる程しの事になったけれども、人間の幸福という事は、どうにも出来ないという事である。金が有るから、物が有るからだけでは出来ないという事である。ボタンひとつでご飯が出来る様になった。ボタンひとつ押せば何でも出来る様になった時代でも人間の幸福とは関係がない。関係がないという訳じゃないでしょう。けれどもその元をなすものは心だという事に気づいてきたんだという事。人間が・・・
その心はどういう心でなからにゃならんかと言うと、幸せにつながる心でなからなならないという事。いうなら、限りのない、無尽蔵につながるおかげでなからなならない。その心を和賀心という。
そこでその和賀心の検討がなされなければならん。和賀心とは和賀心とはと、和賀心とはどういう生き方になったら和賀心になれるのか、和らぎ賀ぶ心というのは、どういう生き方にならせて頂いたら頂けるのかという事になるのである。
此の方の事を生神生神というがとおっしゃるが、そんなら生神とはどういう事か、私はその本質は和賀心だと思う。生神の本質は和賀心、和らぎ賀ぶ心、しかもその和賀が崩れない不壊のもの。
その和らぎ賀ぶ心がどの様な事に直面しても崩れない心、それが生神なんです。生神とは喜びという字をいっぱい書いた丁度手鞠の様なもんだ。どちらへ転がしても喜びが出てくるという様な心なのだ。私は生神の本質は和賀心だと思うのですね。
だからその和賀心を求めれば誰でもが頂けるんだと、和賀心を頂こうと精進すれば誰にでも与えられる心が和賀心なんだ。だから此の方ばかりが生神ではない、皆がその様なおかげが頂けるとおっしゃっておられる。
お互いひとつ、ここで本気で眼を開かなければならない事はです。いわゆるモノゲンオールです。不幸の元も皆。モノゲンオールと言うのは、あれは洗剤でしょう。洗剤ということは、清めるもの、垢を落とすものでしょう。
さっき私が申しましたように、人間という者がいつの間にか我情我欲で汚れ果てておる、もう性が変わろうとしておる。その前に信心に縁を頂いた、合楽に御縁を頂いた。
そして信心とは本心の玉を磨くものぞや、信心とは日々の改まりが第一ぞと言うようにです、いわば垢を落とす事を磨いていく事を、限りなく美しくならせて頂く事を願う。言うなら御教えは洗剤の様なものなのだ。今迄はどうにも出来なかった垢がです、お取り次ぎを頂いて御教えを頂いて自分の心が清まっていくという事なんだ。
私がモノゲンオールを頂いて教典を開かせて頂いたらこの十八節なんだ。そして質という事を頂いてそれがいろいろにです、質だから本質とか、体質改善といった様な連想をしていって、様々な質という事になってきた。今朝の御理解頂く通りなんです。
そこでそんなら、私共がです。そういう本気で自分の心を見極めようと、また本気でそんなら洗剤を使うて洗濯をしようと、心の洗濯をしようという気にならせて頂く姿勢をとるとです、もうおかげが今迄とは違ったおかげが始まってくる事は事実。
だからそう清まりきらなければ、神様のごとなってしまわなければ、おかげが受けられんという事じゃない。そこが素晴らしいところ、そこが親心というものを感じます。もういう事聞くというただけで、うんうんそんならよかというごたる風で、親が喜ぶようなもんじゃないでしょうか。
それはもう誰でも生神様にならなきゃ、おかげが受けられんと言うのじゃない。けれどもそこに本質というものはです。私共が生神を目指す和賀心が神に向かうのを信心というのじゃ、というようにです、私共の本質は神なのですから、その本来の神たる神のです、いうなら人間万物の霊長としての値打ちを値打ちたらしめる、本質の神たらしめれる為に信心がある。そこんところを、根本においての信心でないとです、これは金光様の信心がいわゆる何様もかに様も同じ事になってくるです。
それでは皆さんの本当のおかげに、いわゆる本当の幸福にはつながりません。只自分の願い事を叶えてもらう事の為だけにお参りをしておる。そういう信心であったなら、それはいわゆるお道の信心の本質を知らないと言わなければなりません。
どうぞ皆さん、皆もこのようなおかげが受けられるとおっしゃられるのですから、そこでそんなら、様々な問題その問題の中にある時にです、いよいよその事を通して生き神への道をひたすら精進しなければならないという事。
その難儀な問題を通してです、そこに気付かせて頂くところに気付かせてもろうて本気で改まってゆかなればならないという事になるのです。
そこでですその前の十七節と、次の十九節を見てご覧なさい。御理解十七節に「神の綱が切れたというが、神からは切らぬ。氏子から切るな。」と有ります。
私共がおかげを願い、おかげを求める。けれどもそのおかげを求めるいわゆる根本のところが和賀心に有るのですから、そらもうそうにゃお参りしたばってんおかげ頂ききらじゃった、と言うて信心をやめる人がある。もう神の綱が切れた様に思うけれどです。神は切らん氏子から切るなと仰せられる。
だから信心にはここのところが大事だという事が分かります。いわゆる求めに求め、すがりにすがってゆかなければならない。いわゆる生き神を目指すのですから。
そしてその次の十九節をご覧なさい。「金光大神は形が無うなったら来て呉れという所へ行ってやる」いわゆる時間もなければ空間もない。いつ、どこで、どんな場合であっても「金光様!」と願うところそこに金光大神お取り次ぎの働きがそこから始まる
素晴らしい、いうなら便所の中からでもよかれば、山の中からでもよかれば、海のただ真ん中からでもいい訳である。
そういういわばこれは、どういう事になりましょうかねえ。いうなら天地金乃神の本質とでも申しましょうかねえ。この十七節十九節又は金光大神の取り次ぎの働きの本質というてもいいでしょう。必ず教会に参って来て、ここでお取り次ぎを頂かなならんという事はないという事が分かる。ここだけじゃないという事。お取り次ぎ頂くのは海の中からでも山の中からでもよいという事。いうなら家の便所の中からでもいいのだ。そこんところをね、少し最近は間違えとる様な気がする。さっちここへ来なければお取り次ぎ頂けんように思う。
というてです。我がまま自分の自由でです。そらもう教会にお参りせんでも、家からでも金光様と言やあもうお取り次ぎが出来ると、そういう横着な事は許されません。信心ですから。
いわゆる信心とは、いわゆる真心ですからそういう事はゆるされない事は勿論です。
その十八節の前後は神の本質と、金光大神取り次ぎの本質とをここにはこういう言葉で表現しておられるという事を思います。
そして、どうぞ私は今日質という事、質という字を皆さんもいろいろに考えてみて下さい。私はそれを本質とか、体質改善とか質の良い悪いといった意味での質を使いました。それを今日私がお知らせを頂きましたモノゲンオールという事。そのモノゲンオールという事は洗剤という事でしょう。いわば、お取り次ぎの働きという事は、自分で改めよう改めようとどんなに思うても改められなかった事が、自分でこの垢を落とそう落とそうと、垢に気付いて落とそうと思うけれども、どんなにあせくっても落ちなかったものがです、石鹸を借りたらストッと落ちたように、お取り次ぎを頂く事によってです、嘘の様に楽になれたと心の垢が落とせるという意味で私はモノゲンオールというお知らせを下さったんだと思います。
同時にそんならモノゲンオールという事は物の元という風に思った。ものというのは、全ての事柄、全ての物、オールという事は全てという風に頂いて、難儀の全ての元がです、私共の心にある。そこに気付かせて頂いた人達がです、いよいよ本気で清まる事にです、魂の清まる事にいわば、私共の本質を本質たらしめる事の為の生き神を目指すその心が和賀心を目指すことであり、又私共の心の中に生き神とはここに神が生まれると仰せられるように、自分の心の中にそれこそ自分で自分の心を拝みたい心。そういう例えば、その心が私は和賀心だと、だから私自身がそういう和賀心をいよいよ頂いていって、それこそそれを七つの海を制覇していくというようにです、いわゆる全世界にそういう和賀心のいわゆる全ての幸福の元である事のです、ひとつ本質的なもののところから分からせて頂いて、それを、いうならそれを世界の総氏子、地球上に住む全ての人間の上にです、押し広めていこうという願いを持つ事がです。今年私が世のお役に立たせて下さいという、世のお役に立たせて下さいという願いがです、そういう心を押し広げて行くというところに、私はあるという風に頂いてもらわなならんと思うのです。どうぞひとつこの御理解十八節から又はその前後の十七節、十九節からいわゆる神の本質、金光大神の本質それから私共の本質、それがいつの間にか質が変わっていきよる自分に気付いて初めて改まるという事になり、体質改善という事にならしてもらう。
そこからわが心が神に向うていくいわゆる生き神を目指しての信心が精進なされる訳である。いわゆる、人間の真実の幸福を目指という事はいよいよ自分の心の上にです、わが心をいわゆる、吾とわが心が拝めれる稽古とでも申しましょうか。自分で自分の心が、拝めれる私にならせて頂く稽古を本気でさせて頂いていかなければならんという事を思います。どうぞ、この質という事と特にモノゲンオールよというそこのところを、もう一遍ようと皆さん考えてみて下さい。そこから、それぞれの答えが出てくると思うのです。どうぞ。